「……ふう」
 この現状に対してか、リトラー司令が重いため息を吐いた。
 私も続いてため息を吐きそうになったが、一緒にいたクレメンテ老が重い空気をぶち壊すように軽快に笑ったので止めておいた。
「さすがのリトラーもため息を吐くか。ふぉっふぉっふぉ」
「気持ちはわかりますよ、リトラー司令」
 クレメンテ老に続いて私が言うと、リトラー司令は苦笑いを零した。
「ありがとう、カーレル君。 どうやったらあの天上兵は喋るのかと考えたら、気が重くてな」
 この場にいる私とリトラー司令とクレメンテ老は唸った。

 先日筆頭の遊撃隊が連れ帰った一人の天上兵。
 その天上兵を調べると小部隊の隊長ということが判明した。ならば今度の天上軍の攻撃タイミングも知っているはずだと思い尋問をしているんだが、その天上兵は一切口を開かない。

 案が無いことはない。
 だが、その案を実行していいものか私にはわからない。

 を使う。
 の存在は天上兵にとってはミクトランと匹敵するとほど絶大なんだし、問題ないようにも思えるんだが……。
 彼女の心が変に揺れないかと、心配してしまう。

「カーレル君、何かいい案があったら教えてくれないか」
 リトラー司令にそう言われ、私は苦笑してしまった。
 さすがは司令、私に何か案があるのはお見通しか。
 仕方なく、口を開く。

「――を使うのが、最も有効な手段かと」



トラウマ





「あれ?」
 部屋にいたシャルティエは、自分の机に『ある物』が無くなっている事に気付いて疑問符を浮かべた。おかしい。落としたのかと思い床を調べるも、目当てのものは見つからなかった。
「どうしたのシャル。探し物ー?」
 同じく部屋にいるが、ベッドの上でうつ伏せに寝転び読書をしながらシャルティエに尋ねた。尋ねつつも、は本から目を離さない。
「うん、ちょっと。昨日の夜までは確かにあったんだけど……」
「イクティが何かの間違いで持っていってたりしちゃってね」
「え……」
 朝早くから情報関係の会議で出て行ったイクティノス。もし彼がシャルティエの探している物を持っていったとなると大変なことになる。いや、彼は常識人だし勝手に中を見てもすぐに見るのをやめてくれるはず。
 しかし――仮にも情報将校であるイクティノスが人のプライバシーを見て見ぬ振りをするというのも考えにくい。
「ど、どうしよう……」
 誰も見ないと思って赤裸々に綴ってあるあの文章が人目に触れるなんて、考えるだけで死にたい。だんだんと頭が痛くなってきた。
「とりあえずイクティの所に行ってみたら?」
 相変わらず読書をしながら、はそう言った。こちらはこれだけ胃が痛くなるほどの思いでいるのに、彼女は同情の欠片すらない。
「そうしよう……かな」
 返事をしつつ、シャルティエはが読んでいる本に何気なく視線を移した。
 自分の相手もろくにせず、の興味を全てさらっていっている本が気になったのだ。
 見ると、それは見慣れた本――否、探し物だった。
「ああああッ! ! それ僕の日記じゃないか!!」
「あはは、バレちゃった?」
 シャルティエがずっと探したいた『ある物』というのは、自分の日記だった。思わず叫ぶと、は悪気一切ゼロの笑顔を見せる。顔を真っ赤にさせて、シャルティエはから日記を取り上げた。
「シャルがイクティの所に行ってくれたら、最後まで読めたのに~」
「読まなくて良いよ! っていうか僕がコレ探してるの知ってて話してたの!?」
「もっちろん!」
 は寝転びながらシャルティエに向かって親指を突きたてた。その姿は大変可愛らしくもあり――同時に憎らしくもあった。
 シャルティエは日記を自分の机に放り投げ、に笑顔を見せる。
「――悪い子は、ちゃーんと仕置きをしておかなくちゃ……だよね」
「……へ? シャル……?」
 ガバッ
「きゃああッ! 駄目駄目無理無理くすぐったいよシャルー! ごめんなさいったらぁ! あははははッ!」
「いーや、僕は許さないよ! 死ぬまでくすぐるから!」
 寝そべっているの上に覆いかぶさり、片手で彼女の両手の自由を奪って、もう片方の手でわき腹やら首筋やらをシャルティエはくすぐった。
 は涙目になりつつ身体をよじって逃げようとするが、シャルティエは更に自分の体重をかけて逃げれなくする。
「あはははははッ! ギブギブ! もう無理だってば!」
「今後一切こんな事が出来ないように僕が躾ける!」
 シュンッ
「すみません。リトラー総司令の命令です。大尉、今すぐ会議室……ッ!?」
 不意に部屋の扉が開く音がしたと思ったら、入ってきたのは一般兵。その兵士はシャルティエとの姿を見るなり、目玉が出るほど目を見開き硬直した。
 ――ヤバイ。
 シャルティエの直感がそう告げた。大変誤解を招く格好である。
「も、申し訳ありません! その、どうぞごゆっくり!! リトラー総司令には私から報告しておきますので!!」
「「報告しないでえええ!!!」」
 再びシュンッと音を立てて閉じた扉に向かってシャルティエとは叫んだ。



 ――急がなければ。
 はこれまでにない程、焦っていた。
 シャルティエとじゃれあってる時に運悪く入ってきた兵士は、最早人間の速さではないスピードでリトラーのもとへと行ってしまった。あれからすぐにも追いかけたかったのだが、のマントの止め具がシャルティエの服に引っかかるという悪事態。そして二人とも焦っているものだから余計ほどけず、はマントはおろか上着さえも脱いできた。会議室の道のりも暖かいし、問題ないかと思いつつ。
 一方シャルティエは他の兵士に別件で呼び出され、そちらの方へと行ってしまった。一人でも誤解はとけるか、とは考えながら会議室へと入った。
 ドアを開ければ、すぐそこにはドス黒い微笑みをしたカーレルがいた。
「ヒッ!!」
「おや、
 驚いてが声を上げると、カーレルは笑顔のままに声をかけた。そしてその笑顔のまま、の両腕を両手で掴んだ。
「シャルティエはどこだい?」
「いいい言えませんっていうかごご誤解だから……!」
 カーレルの両手の冷たさ、そして空気の冷たさに震えながらは言った。
 すると会議室の奥の方にいたリトラーが、やっとの存在に気づいたらしく声をかけた。
。良かった……先程報告を受けて、君の身を案じていたのだよ。……痛かっただろう? そんなに震えてしまって。大丈夫、泣いていいぞ」
「何の話してんすか司令。震えてんのはカーレル兄のせいなんだけど」
「ふぉふぉふぉ。シャルティエもすみに置けんのお。確かにはイイ女になる。今晩は赤飯じゃのお!」
「だから何の話ですか!? 何を祝えってんですか!?」
「いつも着てる上着さえも脱いだままで、余程立て込んでいたようだね」
「ああ立て込んでたわよ言っておくけど元々脱いでたわけじゃないから!」
 リトラーに慰められ、クレメンテにからかわれ、カーレルには突っ込まれる。
 半ば涙目になりつつが誤解だ誤解だと叫ぶと、その場の人間もようやくわかったようで。カーレルは黒い空気を引っ込めて、優しい笑みを浮かべた。
「わかったよ、。まあ、ちょっと手を貸してもらえないかと思って。とりあえず座ろう」
 背中を優しく押されつつ座ることをカーレルに促され、はやっと安堵した。椅子に座り、真剣な空気を感じ取ってカーレルに尋ねる。
「それで、手を貸してもらいたいっていうのは?」
「ああ。ピエール・ド・シャルティエ少佐抹殺の件なんだけど」
「わかってねえ!!」
 カーレルの答えには青筋を立てながら突っ込んだ。
 するとカーレルはため息を吐き、リトラーとクレメンテを見た。
「リトラー司令とクレメンテ老であれば、私の気持ちをわかってくれますよね」
「ああわかるぞカーレル君。カーレル君以外の人間がに触れることが間違っている」
「誤解される態勢であったことこそが、そもそもおかしいのじゃ」
「二人とも兵士の報告受けて最初から誤解だとわかってる所、カーレル兄に脅されてるんでしょ」
 カーレルの言葉に顔を青くして答えたリトラーとクレメンテに、は更に青い顔で冷静に言い放った。正直助けてほしい、とカーレルの餌食になった二人が小さく頷いた。
 はあ、とはため息を吐いた。
「……カーレル兄」
「なんだい?」
「世の女性は私情に流されまともに仕事が出来ない人とは結婚しようとは思わないよ」
「…………」
 に言われカーレルは考えるように俯いて沈黙した。
 そして顔を上げ――。
「――が私と結婚したいと思っているなんて初耳だね。わかった、ちゃんと仕事するよ。遊撃隊が昨日連れ帰ってきた天上兵の事なんだが」
「「「…………」」」
 結婚したいとは一言も言ってない。
 そんな突っ込みが思わず他三人から出そうになったが、ここで突っ込んだらまた話が逸れてしまう為なんとか飲み込んだ。カーレルは説明を続ける。
「貴重な情報を握ってるはずなんだが、一切口を割らないんだ。そこで天上兵士たちがミクトランの次に崇拝しているに話を聞いてもらいたいんだが……」
「なんだ、そんな事。全然構わないわよ」
 天上兵が私を崇拝しているとは限らないけど、とはそう続けて答えた。寧ろ崇拝というより畏怖しているのでは、とは思った。なんといってもあの冷酷な天上王の娘なのだから。
 まあ脅しでも説得でも何でもやってみようと思い、は立ち上がった。
「牢獄にいるのよね? じゃ、ちょっと聞いてくるわ」
「道のりで何が起こるかわからないから、私も一緒に行くよ」
 に引き続き、カーレルも立ち上がった。カーレルの言葉を聞いたリトラーは慌てて自分も立ち上がった。
「不安要素が増えた。私も共に行こう」
「どういう意味ですか、司令」
 ドス黒い笑みを浮かべるカーレルに冷や汗を流しつつも、ラディスロウの風紀を守るためリトラーは身体を張った。その勇気は賛美に値するが、どうせならもっとカッコイイシーンでその勇気を使ってもらいたかった。
「過保護じゃのぉ……」
 クレメンテの呆れるような声が、会議室に漂った。



 元来、牢獄というものは大体が不衛生であり、暗く、寒いものだった。
 しかしラディスロウの中にある牢獄は、そんなものとは正反対だ。ラディスロウの牢獄は明るく、隅々まで掃除がしてあって綺麗なのだ。多少寒いが、極寒というほどでもない。
「前から思ってたんだけど……牢獄らしくない牢獄なのね」
「ダイクロフトの牢獄は此処と真逆らしいがね。しかしこの牢獄に入って心を改め、地上軍に入る人間も少なくない」
 の率直な意見に、リトラーは誇らしげに答えた。
 天上軍が冷酷であることを自覚してもらうには、このラディスロウの牢獄の環境は最適な場所だろう。司令もよく考えたな、とは感心した。

 突然カーレルがの耳元で囁くように名を呼んだ。一瞬心臓が止まるぐらい驚いたが、それを飲み込んで「何?」とは尋ねた。
 カーレルは数メートル先の牢獄を指差した。
「あの牢屋の中に例の天上兵がいる。ここなら死角になって天上兵からは私たちが見えないし、こんな風に余程小さい声で会話しない限り会話は聞こえる。私と司令はここで待っているよ」
「……その、必要以上に耳に息を吹きかけるのやめてもらえませんか……」
「カーレル君。セクハラは謹んでくれたまえ」
 吐息を耳に当てるような喋り方をわざわざするカーレルをは拒否する。するとそれを聞いたリトラーが厳しく注意したので、ため息を吐いてカーレルはから離れた。
 カーレルの声だったから無事だったものの、イクティノスのエロボイスだったら死んでいたかもしれないなとは思った。
「こちらも天上兵の動きには気をつけるが、何かあったらも助けを呼んでくれ」
「指一本触れられたら、その指は切り落としても構わないよ」
「カーレル君、君は少し加減というものを覚えた方がいい」
 相変わらずのカーレルの毒が飛び交い、リトラーはそれを諌めた。そんな二人を見ては少し笑い、身体の力が抜けるのがわかった。それなりに緊張していたんだな、とそこで初めて気づく。
「気をつけて。健闘を祈る」
 リトラーの言葉に、は深く頷いた。



「どうも、昨日ぶりね」
 牢屋の鍵を開けて中に入り、軽い調子で中にいた天上兵には声をかけた。すると天上兵は目が飛び出るのではと思うくらいまでに目を見開き、を見る。
「こ、これは様……!先日は数々の無礼を働いてしまったこと、お許し下さい……!」
 は笑った。
「いいわよ、そんなの。別に殺されたわけじゃないんだから」
「そんな……! もし様を殺してしまうようなことがあれば、私が陛下に殺されてしまいます。様を人質にしたのも、全て脅しにすぎません」
 天上兵は酷く慌てるようにそう言った。
 は? とは耳を疑う。
「捕らえることができるのなら、殺しても構わないって聞いたんだけど。 これって父さんが出した命令でしょ?」
 その言葉を聞いた天上兵は、首を大きく横に振った。
「とんでもありません! 確かに遺体さえあれば蘇生装置で回復できますが……。それ以前に、陛下は様が死に値する痛みを体験することをお許しになられないでしょう。殺しても構わない、なんて一部の悪人が流した命令ですよ。様を無傷で保護するように。これが陛下が出された命令です」
 ――うそ。
 は心の中で否定するしかできなかった。
 あんな酷い命令を出したのは、ずっとミクトランだと思っていた。ミクトランは酷い人間なのだと、思い込んだ。
 なのにそれが違っただなんて。
「ミクトラン陛下は様が傍にいらっしゃらないと駄目なんです! ですから……ですから、どうか天上にお戻り下さい!」
 縋るように言ってくる天上兵を、は見つめた。
 そして少し間が空いたあと、言葉を紡ぐ。
「駄目よ。父さんは……ミクトランは私から大切なものを奪ったんだから。そんな人のもとへなんか、帰れるはずがないでしょ?」
「何故ですか! 陛下のもとにいれば、幸せは約束されるでしょう!」
 は、小さく首を横に振る。
「求める幸せが、違うのよ。私が求める幸せは天上にないわ。……まあ、根っからの天上思考の貴方には何を言ってもわからないだろうけど」
様が……様一人が陛下のお傍にいるだけで天上は幸せになるというのに……」
 天上兵はガタガタと震え始めた。もさすがにいい加減うっとうしく感じ始め、切り捨てたくなった。ずい、と身を出して天上兵との距離を一気に縮める。
 そしてはっきりと言う。
「私はあいつが憎いの! なんで好き好んで戻らなきゃいけないのよ。いつか……いつか私はこの手で父親を殺してやるんだから!」
 その言葉を聞き、天上兵は目を大きく見開いた。
 そして震える声で言う。
「この先……お……戻りには、ならないのです……ね……」
「何回も言わせないで」
 は言い放つ。
 すると天上兵はスイッチが入ったように物凄いスピードで突然の腰にかけてあった護身用のナイフを奪った。
!」
 リトラーとカーレルが慌てた様子で牢屋の中へ入ってくる。は天上兵の攻撃に備え、身構えた。
 だが、天上兵の行動は予想外のものだった。
「天上世界に栄光あれ!」
「なッ……」
 天上兵は自らの首にナイフをあて、が驚愕の声をあげ終わる前にその喉を掻っ切ったのだった。
 一瞬にして天上兵と牢屋は真っ赤に染まり、自身も染まった。
「な……に? なん、で……」
 死んだ天上兵を見て、は呟いた。死んだ天上兵が、酷く恐ろしいものに見えた。死んだ天上兵の血も、怖かった。
、大丈夫か!?」
「これは……酷いな……」
 リトラーがに駆け寄り、カーレルがこの現状を見て顔を顰めながら呟く。
「なんでッ……なんで……!」
 震えの止まらない身体を、は自分で強く抱きしめた。目の前で人が死ぬことなんて、もうとっくに見慣れている。しかしこの天上兵の死んでいく様だけは、酷く恐ろしいものに見えた。
 いや、この真っ赤に染まった部屋と自分が、恐ろしい。
「ひとまず外に出よう」
 リトラーはそう言って、の肩に手を置きながら外に出るように促した。
 牢屋から出ると、カーレルがハンカチでの顔についた血を拭ってくれる。そんな中、リトラーは心配そうな表情を浮かべる。
「大丈夫かね。酷く震えているが」
 その心配の言葉にも、は反応できなかった。先程の場面が、頭に焼き付いて離れない。
 するとカーレルがの前で肩膝をつき、小さなその身体をそっと引き寄せる。優しく抱きしめて、優しい声で彼は言った。
「大丈夫だ、。そんなに怖がる必要はないよ」
 子供を宥めるように、背中をポンポンと軽く叩きながら。
は何も悪くない。だから、落ち着いて……」
 ゆっくりと、息を吐く。心を襲っていた負の感情が、薄れていくのがわかった。
「だいじょう……ぶ」
 搾り出すような声でそう言えば、カーレルはの頭を一度だけ撫でて解放した。
「災難だったな。悪かった、こんな役目をやらせてしまって」
「……平気よ。ちょっと、パニクっただけ。司令が謝る必要はないわ」
 リトラーの言葉に、は苦笑を浮かべながら言葉を返した。するとリトラーも苦笑をその表情に出し、の頭を撫でる。
「後処理は全てこちらでしよう。はもう部屋に戻って休んだ方がいい」
「ちゃんと寝るんだよ。仕事がに回らないように配慮するから」
 カーレルがリトラーの後に続いてそう言った。その心遣いに感謝しつつ、は力無く頷いた。やはりこの一件で相当疲れたようだった。身体が重い。
 は一言「ありがとう」と礼を述べて、その場を後にして部屋へと戻った。



 部屋に戻ったはひとまず風呂に入りに行って、再び部屋に戻ってくる。先程と変わらず、まだ誰も戻ってきていなかった。当然か、とは思った。
 イクティノスもシャルティエも何かと忙しい身である。こんな昼間から部屋でゆっくりできるなんて滅多にない事だ。
 せっかく貰えた休みだし、とはベッドの上に寝転がる。すぐに寝れるくらい、疲労は溜まっていた。主に精神面のだが。
 しかし目を閉じて見える光景は、トラウマとなった先程の光景。仕方なくは起き上がり、自分の椅子に座って机に向かう。
 書類処理くらいならやってても文句言われないだろう、と思った。それに、イクティノスかシャルティエ戻ってくるまでに寝たらいいだけの話。

 そして何時間か書類処理や作成に没頭したころだろうか。突然部屋の扉が開いた。
「……まさかとは思ってましたが。やはり寝てなかったようですね」
「……イクティ」
 ため息を吐きながら部屋へと戻ってきたイクティノスに対し、はただ苦笑いを浮かべるしかなかった。こんなに早く戻ってくるとは予想外である。
 すると、そんなの心情を読み取ったのかイクティノスは言った。
「朝早くから休憩無しでずっと仕事したから、いつもより早く終わったんです。……それよりも」
 イクティノスはの隣に立ち、腕を組んで呆れた様子で再びため息を吐く。
「リトラー総司令たちから話は聞きましたよ。それだけショックを受けておいて、よく普通に書類を作っていられる」
「だ、だって眠れなかったんだもん……。カーレル兄には寝ろって言われたし、寝ようと思ったんだけど」
「まったく……」
 は冷や汗を流しながら弁解を試みたが、あまり効果はなかったようだった。イクティノスはの首根っこを掴み、ベッドまで連れていって「寝てください」とただ一言放つ。
 書類を中途半端に作成したままだったので、それをなんとか完成させたかったのだが、ここで抵抗するとイクティノスの逆鱗に触れるような気がしたので大人しく布団の中にもぐりこむ。
 そして自分を寝るまで見下ろしている勢いのイクティノスに恐怖を覚えながら、は尋ねた。
「……怒ってる?」
「……何故怒らなければならないんですか。心配しているんです」
 ため息を吐きながら近くの椅子を引っ張り出し、ベッドのすぐ側に座るイクティノス。足を組んで、相変わらず呆れているようだったが微笑を浮かべてくれた。
 その表情には少し安心して、笑う。
「良かった。イクティ怒ったら怖そうだもん」
「大丈夫ですよ。に怒るようなことはしませんから。ただ、は無茶をしすぎる事が度々ありますから……限界通り越したら怒るかもしれない」
「……極力慎みます」
 笑顔でイクティノスにそう言われたら、逆に怖い。はそう思いつつ苦笑した。
「本当は、が無理をする必要なんてないんですよ。ただでさえあなたは、大人以上の責任をその小さい身体に背負っている。たまには子供らしく羽を伸ばしてもいいと思うんですけどね」
 イクティノスの言葉に、は顔が綻ぶのを感じた。
 そこまで考えてもらえてると、初めて知ったから。
「ありがと、イクティ」
「わかったら寝て下さい」
 そう言って、イクティノスはの頭を優しく撫でた。そのまま寝ようかとは思ったのが、そういえばイクティノスに聞きたいことがあったのを思い出して再び口を開く。
「あのさぁ」
 が再び喋りだしたことに、イクティノスは「まだ喋るのか」という表情を浮かべる。
「そんな顔しないでよ。……イクティの机の上にあるペンダントの中の女の人って誰? 恋人?」
「ぶッ」
 相当驚いたのか、の質問にイクティノスは噴出した。あまり見られないイクティノスの焦った顔を見て、はアハハと笑う。そんなを少し睨むイクティノス。
「見たんですか? それも勝手に……」
「だって机の上にどうぞ見て下さいと言わんばかりに置いてあったんだもん。……で、恋人なの? 綺麗な人だったけど」
 はあ、とイクティノスは深いため息を吐いた。
「……違いますよ。彼女は私が心の底から尊敬していた人です。とても純粋で、人間らしい人だった。……もう、この世にはいませんが」
「あ、そうなんだ……」
 少し気まずくなる空気。はペンダントの中の女性を、思い出す。
 優しそうに、少し照れ臭そうに笑っていたような気がする。その笑顔がどこか儚くて、心に残ったままだった。
「イクティが尊敬した人かあ……。私も会いたかったな」
 がぽつりと呟くと、イクティノスは一瞬驚いた顔をする。そして優しく微笑んだ。
「そうですね……。にも、会わせたかった」
 穏やかな微笑を浮かべながら、の頭を撫でる。そして「もういいでしょう」と言い、寝るように仕向けた。
「はいはい。おやすみ、イクティ」
「……おやすみ」
 目を閉じても、昼間の一件の事は一切頭に浮かんでこない。
 それはやはり、イクティノスがずっと頭を撫でてくれてるからだろうと思う――。



「――ふう……」
 溜まっていた書類をやっと片付けることが出来て、会議室にいるリトラーは一息吐いた。時計を見て、もう日付が変わってから一時間経っていることに余計疲れを覚える。
 同じように会議室で仕事をしていたクレメンテが、リトラーを気遣うように声をかけてきた。
「おぬしもあまり無理するでない。睡眠どころか、休憩もろくにとっておらんじゃろう」
「しかし、皆も同じように頑張っていることだ。私だけ楽はできんさ」
 断言するようにリトラーが言うと、クレメンテはやれやれといった顔をする。
「あまり根を詰めすぎるな。おぬしは地上軍総司令なんじゃからな。体調を崩してしまってからでは遅い」
 クレメンテがいう事実に、リトラーは笑った。
「手厳しい言葉だな。……クレメンテ候の言葉に甘えて、今日は上がろう」
「懸命な判断じゃな」
 同じように笑いながら、クレメンテが言った。

 会議室を出て、リトラーが向かったのは自室ではなくラディスロウの外。
 寝る前には必ず外に出るのが、リトラーの習慣だった。
 深々と降る雪を見ていると、唐突に良い策が浮かぶことも多い。
 夜勤の見回りに恭しく礼をされつつ、リトラーは外に出た。
 腕を組んで、ただ空を見上げる。
 今頃ミクトランはどういう想いでいるのだろうか。溺愛していたという娘が傍からいなくなり、気が気でないだろう。ある意味チャンスだな、とリトラーは思う。
 しかし、もしが天上へ戻ることになってしまったら。それは最悪の事態だな、とも思う。そうなってしまえば最後、ミクトランは全力で地上を潰しにかかるだろう。
 がもう傍から離れないようにする為に。
「あれ? 司令じゃない。こんな時間に何してるの?」
 突然後ろから声をかけられる。それはあまりに唐突だった為、リトラーは驚く。
 後ろを振り向くと、どこかからか戻ってきたらしいが立っていた。
「こんな時間にどうしたのかね?」
「私と同じこと聞いてるよ?」
 咄嗟のことだった為、何も考えずにに尋ねると指摘された。それが自分にしては酷く滑稽で、思わず笑ってしまった。
「すまない、がいきなり声をかけてきたから驚いたんだ。私はこうやって寝る前に空を見上げるのが習慣なのだよ。良策をよく思いつく」
「そうなんだ。私は夕方思いっきり寝たし、さっき起きたら眠れなくなっちゃって……ちょっとお墓参りに行ってたの」
 つられるように笑いながら、は言った。おそらくヴァンクの墓に行っていたのだろう。シャルティエの話では、は毎日のようにヴァンクの墓に通っているらしい。
「で、何か良策は思いついた?」
「いや、まだだな。ところで、
 少し考えていたことを尋ねようと、リトラーは口を開いた。
「天上に戻る……などという事は無いかね」
 リトラーのその質問に、は思い切り眉を顰めた。そして「私もしかして邪魔なの?」と泣きそうな顔で言う。
 そういう意味ではないんだよ、と言ってリトラーはの頭を撫でた。
「その逆だ。は地上にとって必要不可欠。……それ故に、天上に戻ることがあれば大変だなと危惧したのだよ」
 リトラーの言葉を聞いて、はホッと胸を撫で下ろした。
「大丈夫よ。昼間も天上兵に言ったけど、戻る気はさらさらないから。……戻ることがあるとしたら、それは天上軍を叩くときよ」
「それを聞いて安心した」
 力強いの言葉を聞いて、リトラーは頷く。少し間があって、はリトラーに聞いてきた。
「ねえ司令。……天空都市が出来る前のミクトランって、どんなだったの?」
 少し意外な質問に驚きつつも、娘としては気になるんだろうと思いリトラーは質問に答える。
「何事にも冷めていて……ともかく不器用な男だった。私は友人だと思っていたが、奴がそう思っているかはわからなかったな。愛なんて言葉が、一番似合わない男だった。だからミクトランが娘を溺愛しているという情報を入手したときは、本当に信じられなかったのだよ」
「そう、なんだ……。やっぱり……酷い人、だったのね」
 の言葉に、リトラーは首を横に振る。
「酷い奴ではなかった。ただ、他人の感情を正しく読み取るのが大の苦手で。その上に思い込みが激しく、融通が利かなくて、マイナス思考の自意識過剰で。天才の癖に……どうしようもないくらい馬鹿な男なのだ」
「なんか、ちょっとわかる気がする」
 ボロカスな説明に、は少し笑った。
 そんな馬鹿男の暴走を止めようと思っている、とリトラーが言うとは「手伝うよ」と笑った。
「あの人だけは、許せないから。……ミクトランを倒す為だったら、私は何でもする」
 そう言ったの瞳は、力強いものだった。しかし、それ故に少し心配になる。
「無茶はしなくていいぞ。過労死されては困るからな」
「その言葉、そっくりそのまま司令に返しますー」
 は唇を軽く尖らせながら反論した。リトラーはこんな小さな子供にまで心配されていることを初めて知り、苦笑いを浮かべるしかなかった。
 そして空を見上げる。

 ――そうだな。あまり無理はしないでおこう。
 ――どうでもいいかもしれないけど司令。動かないと雪がどんどん身体に積もるよ?

あとがき
なんかもう夢小説というものを書くこと自体久しぶりすぎて…!リハビリ作品みたいなものですね。
今回はギャグ少なめな感じで仕上がりました。前半にちょっとカーレルの暴走を入れてみただけ…!
シャルと夢主が絡み合うシーンを少し書きたかったのです。ほんと仲良いよなあこの二人!
次回は恐らくカーレルと一緒に任務だと思います。あれ、最近カーレルとの絡み多くないか!
それでは、ここまで読んで下さった方、有難う御座いました!
2009/1/10
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