酒と愛に溺れる乙女


「参ったな……」
 目の前の惨状に、リィンは後頭部を掻いた。
「わらひは、ほこりたかきアルバレア家の、使用人なんれす……! これくらい、ひとりれ……! ひっく」
 呂律が回ってないがそう言いながらモップを支えに立ち上がり、しかし足をもつれさせて、ズベシャアという音と共に再び床に崩れ落ちる。そんなことを何度も繰り返しているせいか、どちらがモップかわからないくらい彼女の制服も床の水分を吸っていた。
、さすがにその状態じゃ無理だろう。少しここを出て休まないか?」
「いいえっ! わらひがうけもった仕事れすのれ! リィンは手をださないれくらはい! わらひはほこりらはひアルバレア家の……」
 その台詞を聞くのはこれで何度目だろうか。そして何度目かもわからない転倒をは繰り返した。

 本来なら、リィンはもう寮に戻っているはずだった。だが、今いるのは喫茶店キルシェの倉庫。しかも酒浸しになった倉庫。
 放課後、学院内を一回りし今日は誰からも頼まれ事をされずに帰路についた。珍しいこともあるものだと思いつつ、喫茶店の前を通り過ぎようとした時。喫茶店でアルバイトをしているドリーに捕まった。ここまでは想定内。
 けれど、焦る彼女に案内された先……酒浸しになった倉庫でが泥酔してたことは、さすがに想定外だった。
 詳しく事情を聞くと、喫茶店の店主であるフレッドが、生徒会に店の倉庫の整理を依頼したらしい。それを受けて、普段から生徒会の手伝いを積極的に行なっているが来た、というわけだ。
 最初はとドリーの二人で整理していたらしいが、ドリーが転倒の際に大きな酒樽に大穴を開けてしまった。またたく間に酒が床に広がっていく中、間の悪いことに喫茶店が混雑してきてドリーがホールに出なくてはならない状況に。も片付けを笑顔で了承したため、安心して任せ――約三十分後、再びドリーが倉庫に戻ってきた時には、既には手がつけられない状態になっていた。
 おそらく換気の悪い倉庫内での作業だったから、漂うアルコール成分で酔ってしまったのだろう。ドリーはそう思って彼女を外に出そうとしたが、はモップを握りしめて離さず「自分が最後まで掃除をする」と言い張り倉庫に籠城してしまった。
 一体どうすべきか……とドリーがフレッドに相談している時、店の外を歩いているリィンが見えたので捕まえた、ということだった。

 リィンが頭を抱えるまで、そう時間はかからなかった。まずリィンが来たことに対して彼女は「自分が信頼されてないから生徒会がリィンをよこしたのか」と勘違いして号泣し、リィンが必死で説得し誤解はおそらく解けたものの、倉庫からは一切出ようとしない。何故ならば、自分は誇り高きアルバレア家の使用人だから、と。請け負った仕事は完遂してみせる、と。
 埒が明かないので、女子相手に申し訳ないとは思いつつ実力行使で倉庫から出そうとしてみたが、は泥酔状態でも隙がなく、捕まえようとしてもひらりひらりと身を躱し、挙句の果てには躓いた拍子にモップの柄の先をリィンのみぞおちに沈めた。いつかユン老師から聞いたことがある東方に伝わる流派――酔拳の達人なのではないか、と思わずにはいられなかった。

 完全にお手上げだった。少なくとも一人でどうにかできる問題ではない。
 リィンは戦術オーブメントARCUSに手を伸ばした。誰かに手伝ってもらうしかない。誰が適切か……を説得できるとしたら、彼女が最も信頼する人間しかいないだろう。
入学当初は想いがすれ違って、間に冷たい空気が流れていた二人。しかしバリアハートでの特別実習で和解し、それからひと月経たないうちにARCUSのリンクレベルがカンストした二人。
 きっと大丈夫だ。リィンは確信し、ARCUSの通信機能を起動させた。


 本日の馬術部の活動が終盤へと入ったころ、ユーシスのARCUSに通信が入った。今は馬の手綱を引いてグラウンドを歩いているだけなので、このまま通信に出ても問題ないだろうとARCUSを開いた。
「こちらユーシス・アルバレ――」
『ユーシス、俺だ。リィンだが』
 こちらの応答も禄に聞かず、食い気味に焦った声を出したのはリィンだった。大方、誰かに面倒事を押し付けられてトラブルに巻き込まれているのだろう。
 そう思いつつも要件は一応聞いてみることにした。
「何かあったのか?」
『それが……通信で話すより、実際に足を運んでもらったほうが……くっ、キツイな、このままだと俺まで……』
 通信の先ではビチャビチャと水音が響き、一定のリズムで短く引きずった様な音が繰り返されている。一体何をしているのだあの男は、とユーシスは嘆息したくなった。
「今は部活中だ。急用じゃなければ助けに行くのは部活が終わってから――」
 不意に、言葉を切るユーシス。通信の先で、非常に聞き覚えがある声が聞こえたからだ。その声は涙声で何かを訴えたり、しゃくりあげたりしている。慌ててユーシスはリィンに問う。
「待て、そこにがいるのか?」
『あ、ああ……とんでもない状態で。少なくとも俺は今までこんなは見たことがないな。とてもじゃないが、俺一人ではどうしようもなくて。あ、もユーシスと通信したら落ち着くかもしれないな』
 リィンはそう言い、にARCUSを近づけたようだった。
、大丈夫か。一体何が起こっている」
『ひゃっ!? ゆ、ゆーしすさま!? リィン、ゆーしすさまに通信したんれすか!? ひ、ひどい……こんな姿、ゆーしすさまに一番見られたくないのにぃ……っ!』
!?」
『ゆーしすさま、き、きかないで……いまのわらひ、だめ、ともかくだめで……あっ、腰に、力が入らなっ……んんっ!』
 いつものからは考えられないほどに乱れた声。そして小さな悲鳴と共に、水音が響く。
 ARCUSから拾える少ない情報を、頭を最大限に使って組み立てていく。
 ――最悪だ。
 これが悪夢であるのなら、一刻も早く覚めてほしい。よもや、リィンがに手を出すとは。そして悪趣味にも、そういった行為の最中にの想い人であるはずの自分に通信を寄越すなど。
『どんな状態か、大体わかってもらえたか?』
 少し疲れた声でリィンがユーシスに問う。一体どうしたというのだこの男は。
「正気になれリィン・シュバルツァー!!」
 気づけば、ユーシスは通話口に向かって大声で怒鳴っていた。
『お、俺は正気だが……正気じゃないのは、のほうで』
「一体に何をした!? 答えろ!!」
『さっきまでは色々試してみたんだが』
「色々……!?」
『俺ではどうにもならなくて……ユーシスに頼むしかないと思ったんだが。忙しいようだったら他を当たることにする。さすがに他に三人くらい集めて囲えば何とかなりそうだ』
「か、囲うだと!?」
 リィンのとんでもない発言に、危うくARCUSを握りしめすぎて粉砕してしまうところだった。ただのお人好しと見せかけ、中身はとんでもない暴漢だったというわけか。
『客も増えてきたからこれ以上迷惑はかけられないし』
「客!?」
『ユーシス、すぐ来れそうか?』
「すぐに行ってやる。場所はどこだ!」
『喫茶店キルシェの倉庫内だ。できるだけ早く頼む……この中、けっこうキツくて……俺もいつまで保つか――』
 狂ったリィンの卑猥な台詞を全て聞かないまま、ユーシスは通信を切った。ARCUSを握る手は、怒りで震えている。
 倉庫。暴漢どもが好みそうな場所だ。その暴漢がリィンだという事実に、裏切られた気持ちが大きいが今は何よりを救い出さなければならない。
 そう、一刻も早く。
 ユーシスは馬術部で自分が世話をしている白馬に飛び乗った。グラウンドから喫茶店。走っていくより馬のほうが断然早い。
 街中を馬で走っていいのか怪しいところではあるが、今は非常事態。背に腹は代えられない。
「ハイヤー!!」
 手綱を引き、馬を走らせる。後ろの方から馬術部の部員たちによる戸惑った悲鳴が聞こえたが、そんなことを気にしていられる余裕もなかった。


「俺もいつまで保つかわからない。何せ流れ出た酒の量が半端なくて……」
 通話口に話しながら、リィンは既に通信が切れていることに気がついた。いつも余裕があるユーシスも、が関われば取り乱すこともあるらしい。それだけ大事に思っているのだろう。二人がそこまで仲良くなるなんてな、と感慨にふけりながらARCUSをホルダーに戻した。
、ユーシスがすぐに来てくれるぞ」
「へぁ!? なんれ呼ぶんれすかぁっ!? ほんっっっっとうにリィンはおとめごころがわかってないれす!!」
「はは、からこんなに怒られるなんて何か新鮮だな」
「わらいおろららいれるよぉ!!」
 だめだ、もう人語じゃない。
 何度も転倒し、立ち上がる彼女は諦めるという選択肢を知らない。呼吸は忙しなく、そのせいで空気中に漂うアルコールが更に彼女を満たしてしまう。リィンでさえ、頭が少しくらくらとしてきた。とはいえ、目の前にいる彼女のようには酔わないと思うが。
 倉庫から連れ出せないのであれば、せめて床の惨状をどうにかしようとリィンもモップを持ったりした。が、「リィンは手を出さないでください」とそのモップをに折られてしまったのだ。しかも「また手を出したら次はリィンがこうなる番です」と脅し文句までつけて。
 人間は酔うと本性が現れるというが、それが真実だとするとの普段の笑顔がとてつもなく怖いものに思えた。
「……はどうしてそんなに必死になれるんだ? 誇り高きアルバレア家の使用人だから、というのはもう分かったが、その……他の理由とか」
 もはや彼女自身が濡れ雑巾となり、酒を広げている気がする。ユーシスはすぐ来てくれると言ったが、学院から喫茶店まではそれなりに距離がある。走ってきたとしてももう少しかかるだろう。その間これ以上被害が拡大しないように、を落ち着かせるために話をすることにした。落ち着けば、酔いも少しは覚めるかもしれない。
「ひょれは…………わらいはろうひようもないおひほぼれなのれ、こういったことれしかられらのやうにられらいられれる……らるれらひろのえあおら、わらいにりあらをあらえれるれる……ひょんなひあるるあられるられ……」
 たとえ、言ってる意味が全くわからなくても。
 この会話には、大きな意味があるはずだ。リィンは自分にそう強く言い聞かせた。
「……そうか……」
 しかし、意味がわからない以上、それ以外の言葉を返すことができない。会話とはお互いに球を投げ、受け取る。それを繰り返して成り立つもの。投げられたのが球かもどうかわからないものを、リィンには受け取る術がなかった。
 ユーシスは今頃、学院の門を出たくらいだろうか。どうか早く到着してほしい。このままでは自分の無力さで消滅してしまいそうだ。
「らからっ、わらひはあきらめるには……!」
 会話が続かないものだから、が再び立ち上がる。モップを頼りに生まれたての子鹿のように足を震わせながら立ち上がる。
「あっ……!?」
「危な――っ」
 誇りにかけて立ち上がったは酒で足を滑らせ、そのまま後ろに向かってふらつく。リィンが助けようと手を伸ばしたが間に合わず、彼女は背後にあった棚の角に頭をぶつけた。
 ごっ、と鈍い音を立て、棚に背を預けたままズルズルと崩れ落ちる。リィンは慌てて駆け寄った。
! 大丈――うっ!?」
 彼女の安否を確認しようとして、リィンは盛大に動揺する。
 頭をぶつけて大人しくなったは、座りこんだままぴくりともしない。そして突然倒れた人間が咄嗟に防御できるわけもなく、とてつもなく無防備な姿で気を失っていた。
 見えている、というレベルではない。スカートが完全に捲り上がってしまっている。
 上着で隠すしかない。リィンは自分の上着に手をかけようとし、ある事に気がついた。
「夏服だった……!」
 7月に入ってから衣替えをし、Ⅶ組特有の赤の制服はクローゼットの中。今リィンが上半身に着ているのは半袖のシャツだけだった。
 しかし何をためらう必要があるだろうか。
 こんな状態のを、ユーシスが見てしまったらなんと言うか。こんな状態をユーシスに見られたと、が知ったらどうなってしまうか。
 全ては二人のため。半裸になるくらいどうということはない。
 リィンはシャツを脱ぎ、そのシャツをの下半身にかけた。
「これで良し……」
 不可抗力とはいえ、彼女のスカートの中を見てしまったこと自体はユーシスに怒られるだろう。だがあの状態で放っておくよりかは、紳士的な行為なはず。きっと許してくれるはずだ。
 倉庫の外がばたばたと騒がしい。もしかしてユーシスが来たのだろうか。いくら何でも早すぎる気がする。せいぜい橋の上を渡っている頃合いだと思うのだが。
 蹴破らん勢いで、倉庫の扉が開く。ユーシスだった。彼はを見て、リィンを見た。
「……リィィィンシュバルツァァァァアアアアア!!!!!」
 彼は今まで聞いたことのないような怒声をあげた。








「……手間をかけたな」
 を乗せた馬を引きながら、ユーシスは燃え尽きたような声でリィンに言った。
 問答を繰り返した後、全ての事情をリィンの口から聞いた時、ユーシスはどれだけ罪悪感に襲われたことか。馬で向かっている最中、ユーシスは「もしかしたら何かの間違いではないのか」と思っていた。お人好しで朴念仁なリィンが、を襲うなど大それたことができるものなのか。しかし、倉庫につくと顔を真っ赤にさせて寝ている。そのすぐ側には半裸のリィンがいた。我を忘れて殴りかかってしまった。
「はは、気にするな」
 お人好しが笑う。
 ユーシスの拳が届く前に床に広がる酒で足を滑らせ転倒し、リィンに怪我はなかったものの罪悪感は消えない。
「すまなかった」
「謝るほどのことじゃないだろ」
 お人好しが困ったように笑う。
 リィンはユーシスが怒った理由は、不可抗力とはいえのスカートの中を見てしまったからだと思っている。
 違う、違うのだ。お前は何も知らない。俺はあろうことか、お前がを手篭めにしたと思った。そして当てつけに俺に通信を寄越したのだと思った。そして他の男を呼びを囲おうとしたと思った。そして最後にはを大勢の男の前で見世物にするかと思ったのだ。
 しかし、それを告げる勇気はユーシスにはなかった。そんな風に思われていたと、この善良な男が知ったら、それこそ更に傷つけてしまいそうだったからだ。
 アルバレア家の人間として周囲からの視線というものには慣れていたはずだが、今ばかりは街人からの視線が痛かった。
 薄暗い倉庫の中ではわからなかったが、の制服のシャツは酒を吸ってぴたりと肌に密着し、うっすらと下着が透けて見えていた。馬に乗せる以上目立つわけで、そんな姿を街中に披露するわけにもいかず、リィンのシャツをかぶせたままだ。
 馬の背中に酩酊状態の女。側を歩くは半裸の男。
 こんな組み合わせで見るなというほうがどうかしている。ここがバリアハートでなくて良かったと心の底から思った。
 馬が、自分の背中から漂ってくるアルコール臭に困惑している。頼むからそんな顔をしないでほしい。帝国男子として、貴族として、際どい姿をした女子に長い間触れるわけにはいかないのだ。
「まさかがこんなに酒に弱いなんてな」
「俺も知らなかった。飲んだわけでもなく、嗅いだだけで泥酔するというのも初耳だぞ」
 言いながら、ユーシスは馬の背にいるを見た。先程からぴくりとも動いていないが、生きているのだろうか。馬に乗せる時に苦しげに唸っていたから、死んではいなさそうだが。

 第三学生寮に到着し、馬を中に入れるわけにもいかないのでを馬の背から降ろして抱きかかえる。濡れた彼女の豊満な胸元をできるだけ見ないようにしつつ、リィンに扉を開けてもらって中へと入った。
「お帰りなさいませ、リィン様、ユーシス様……それと、様」
 まるで帰ることがわかっていたように、第三学生寮の管理人シャロンが出迎える。いきなり酒の匂いを漂わせるずぶ濡れの女を抱き上げた男と、半裸の男が帰ってきても動じないあたり、流石としか言いようがない。
「ふふふ。酒を浴びるほど飲む、とはよく言いますが……うら若き乙女にそれを実行させて酔わせるとは、お二人とも流石の手腕でございます」
「ご、誤解ですよ!?」
 落ち着いた笑顔で楽しげに話すシャロンに、リィンが慌てて訂正した。
 事情を簡潔に伝えた後、ユーシスはシャロンに申し出る。
「管理人、にシャワーを浴びせられるか。一人では無理だろうから、助けてやってほしい」
「それは造作ないことですが……様は酩酊状態のご様子。この状態での湯浴みは心臓に負担がかかり、危険でございますわ。タオルでお身体を拭く、くらいに留めたほうがよろしいかと思います」
「それもそうだな。頼めるか?」
「はい、シャロンにお任せください」
 シャロンは笑顔で承諾し、寮の倉庫からタオル、調理場からぬるま湯が入った桶を持ってきて「では参りましょう」との部屋へと促した。
「眠ってしまうとお酒を分解する力が弱くなってしまうので、様にはお目覚めになってもらわないといけませんね。あとたくさんお水も召し上がっていただかないと。うふふ、楽しみです」
 階段を登りながらそう言うシャロンに、少なからず不安を覚える。何故か、がシャロンに叩き起こされ水責めに遭う図が脳裏に浮かんだからだ。いくら何でもそのような手段は取らないと思うが、そう思わせる迫力が彼女にあった。
 ユーシスは案じながら、腕の中で小さく寝息を立てているを見た。庇護欲をかき立てる寝顔だ。いつまでも見ていられる、と思った。階段をひとつ上がる度に、の胸が揺れる。ユーシスは見るのをやめた。
 を部屋まで連れていき、シャロンに託してユーシスとリィンは部屋を出た。疲れから出た二人のため息が重なる。
 それに対してリィンは笑い、ユーシスに言う。
「俺は着替えたらユーシスの馬を学院に戻してくる」
「お前……人が良すぎるにも程があるぞ」
 リィンの善良さは今に始まったことではないが、今回ばかりはその優しさが辛い。何せこんな善良な男を、脳内で暴漢に仕立て上げてしまったのだから。
「気にするな。シャロンさんも夕食の準備があるし、をずっと見ているわけにもいかないだろう。ユーシスが見ていてやってくれ。その方がも大人しくなるはずだ。……多分」
「……一体どれだけ酒癖が悪いんだ、あいつは……」
 語尾に付け加えられた言葉にリィンの苦労が滲み出ている気がして、ユーシスは二度目のため息を吐いた。酔った女は可愛いと誰かが言っていたが、リィンの様子を見る限りとてもそうは思えない。旧校舎の探索をした後よりも疲れた顔をしている。
「まあ、もしかしたら酔いもだいぶ覚めてるかもしれないしな。それじゃあ、行ってくる」
 希望を残すような台詞を告げて、リィンは踵を返し階段を下りていった。
 ユーシスが側の休憩スペースに腰掛けた時、真下から鼓膜に突き刺さるような悲鳴が聞こえた。アリサの悲鳴だ。
「あ、ああ、あなた!! そんな格好で三階で一体何をしてたのよ!?」
「ご、誤解だアリサ!」
「信じられるわけないでしょう!?」
 帰ってきたアリサがリィンと鉢合わせしたのだろう。しかも、リィンが半裸で女子の部屋が集う三階から下りてくる、という最悪のタイミングで。次から次へとよくもまあトラブルに巻き込まれるものだ、と感心すらしてしまう。
 いつものユーシスであれば、傍観に徹していただろうが……今日だけは。今日だけはリィンに降りかかるあらゆる誤解を解いてやろう、と再び腰を上げた。


 完全に誤解し、紅い瞳を怒りで更に燃えさせるアリサに立ち向かうのは、さすがのユーシスにも勇気が必要だった。それでも貴族の義務――ノブレス・オブリージュ――を果たすため、リィンに「ここは俺に任せてお前は先に行け」と告げた。
 それが、おそらく本日一番の誤解をした男による、誤解をされた男のための唯一の報い方だった。
 リィンが着替えて寮を出ていった後、アリサはようやく「そうだったのね」と納得した。
「ラクロスをやってる時に、ユーシスが馬に乗ってグラウンドを出ていった時は何があったのかと思ったけれど、そんなことが……」
 とんでもない誤解をした上で、そんな逸脱した行為に及んでしまったことは、さすがに言えない。
「……通話越しのが、ただならぬ状態だったからな」
「ハインリッヒ教頭がしっかり見てたみたいで、ずいぶん怒ってたわよ」
 学生が廊下を走るだけで「風紀が乱れる」と説教をしてくるハインリッヒ教頭から見て、学生が学院内を馬で走る光景は一体何が乱れたように見えただろうか。白馬を学院に連れ帰っているリィンが捕まらなければいいが、とユーシスは案じた。
のためだったと言えば、あの教頭殿も納得するだろう」
「……何故かには頭が上がらないのよね、教頭って」
 アリサの言葉通り、ハインリッヒ教頭は何故かに弱い。元々品行方正なに文句を言う隙はないだろうが、挨拶ひとつにしても他の学生との違いは明らかだ。が微笑めば、ハインリッヒ教頭も微笑む。が頑張れば、ハインリッヒ教頭は応援する。
 以前、ハインリッヒ教頭が私物であろう黒革の手帳を眺め、を眺め、そして「トールズ士官学院の月の姫……」と呟いているのを見たことがある。全く意味がわからなかった。
「それにしても、今はシャロンが看てるのよね? 心配だし、ちょっと覗いてこようかしら」
 を案じるアリサが上を見る。ユーシスもそれに倣って上を見上げた。
「らああああああああああ!?」
 上から、の悲鳴が聞こえた。寝ていた彼女は、一体どのような手段でシャロンに起こされたのだろうか。比較的な冷静な彼女がここまでの悲鳴を上げるのは、酔いのためか、それとも……。
「今のって……」
 いつの間にか帰っていたのか、二階へと上ってこようとしているエリオットがいた。今の悲鳴を聞いたであろうエリオットは、ユーシスとアリサに問う。
「ラじゃなくて、シの音だよね?」
 優しげな面立ちをしておきながら、死の音と表現するとは。不吉極まりないな、とユーシスは思った。


 リィンの言う通り、シャロンは長く付き合ってはおられず「お洗濯と、お夕食の準備がございますので」と言い、後のことをユーシスに任せた。
 その場にはアリサとエリオットもいたのだが、二人は「祖の音じゃない?」「いや、やっぱり死の音だったと思うよ」「エリオットが言うなら……でもやっぱり祖だと思うのよね。ちょっとエリオットの部屋で聞かせてくれない?」などとよくわからないことで盛り上がりながら、エリオットの部屋へと行ってしまった。
 あいつらにはガイウスが言うような「風」が音として聞こえているのだろうか。
 シャロンはの身体を全部拭き、目覚めさせ、着替えさせ、水を飲ませたと言っていた。そしてユーシスに課せられたのは、の酔いが覚めるまで悪戯をしてでも寝かせないこと、溺れない程度に水を飲ませること。何なら口移しでも構わない。ユーシスからだったらも喜んで飲むだろう。
 そのようなことを茶目っ気たっぷりに伝えたシャロンは、一階へと下りていった。
「口移しなど……緊急時以外やる必要もないだろう」
 ひとりごちながら、ユーシスはの部屋をノックする。返事はない。寝たら起こせと言われているからには、このまま引き下がることはできない。「開けるぞ」と声をかけ、控え目にドアを開ける。
 がいない。否、いた。彼女は部屋の隅で頭から足の先まで掛け布団で身体を隠し、丸まっていた。
 ユーシスが近づくと、涙に濡れた声が聞こえた。
「うっ、うっ……もうダメです……もう飲めません……許してください、シャロン様……寝ません、寝ませんから……もうやめて……」
 一体何をされたのだろうか。聞くのも憚られる彼女の状態に、ユーシスは不安を覚えた。既に自分の手に負えない気がする。
 だが、己が惚れた女だ。が泣こうが、喚こうが、この腕に抱いて宥めるしかない。

 ユーシスが声をかけると、白い布団の塊がびくりと跳ね上がった。
「ゆ、ユーシス様……? だ、だめです、今すぐに引き返してください。今の私はとてもじゃないですが、アルバレア家の使用人としてお見せできる状態じゃありませんので……」
 の語調は、少し覚束ないものだった。リィン曰く気絶する直前は人語じゃなかった様なので、その時よりかはだいぶ酔いが冷めているのだろう。
 だが、このままでは何もできないまま追い返されそうだ。どうにかして、を奮い立たせ部屋の隅から移動してもらわなくては。
「お前の矜持はそんなものか」
「え……?」
「俺はお前が、今までどれほど努力してきたかを知っている。アルバレア家の使用人として恥じぬ様にと、日々研鑽するお前の姿を。アルバレア家の人間のために、働くお前の姿を」
「…………」
「――立て。これしきの事で、折れてしまうお前ではないだろう?」
「わ、私は……」
 震えながら、丸まっていた白い塊がゆっくりと縦に伸びていく。
「私は、誇り高きアルバレア家の使用人……っ!」
 が立った。胸に秘めた誇りを言葉にしながら、立ち上がった。
 しかし、こちらを振り向いたところで足がふらつき、こちらに向かって倒れてくる。彼女が転倒しないように、ユーシスは抱きとめた。白の掛け布団がふわりと舞う。
「す、すみません、ユーシス様」
 慌てたが、急いで離れようとする。
 それを阻止するように、ユーシスはを抱く腕に力を込めた。
「……甘えるがいい。そもそも、俺の前にいるのは使用人ではなく、愛する女だ」
 真正面から伝えれば、は耳まで真っ赤にしていた。


「……お邪魔しちゃ悪いわね」
 アリサは小さく呟き、の部屋の前から離れた。
 の悲鳴の音階がシの音かソの音かでエリオットと談義し、彼の部屋まで行ったもののが心配になって様子を見に来たのだ。
 つい立ち聞きしてしまったが、ツッコミどころはそこら中に転がっているものの、二人は良い空気になっているらしい。
 互いのことを認めあっているのに、嫌われているとお互いに勘違いをしている二人を見ている時は、随分とやきもきしたものだ。それが今では、そんな過去を忘れたかのようなラブラブっぷりを見せつけてくる。
 しかし、交際しているのかとに聞いた時、彼女は曖昧な答えだった。その反応を見る限り、ユーシスはきっと正式な告白をしていない。いや、想いは告げているのだろうが、恋人関係になるということを告げていない。今のままでは、公爵家の人間が使用人に手を出した、という事実があるだけだ。
 それはのためにならない。これを機にあと少しだけ進展してくれたら良いのだけれど、と嘆息しながらアリサは自室へと戻った。


 酔った女は可愛い。
 そんな俗説に、ユーシスは既に頷きそうになっていた。正確には、酔ったは可愛い、だが。
「ユーシス様、知っていますか? ユーシス様のファンは学院にものすごくいるんですよ。ふふ、さすがユーシス様ですね。ユーシス様の魅力は学院だけでは留まらず、雑貨屋の娘さんのティゼルちゃんもユーシス様を見て瞳を輝かせていました」
 は上機嫌で、聞いてもいないユーシスの話を延々と続ける。自分の名前を嬉しそうに連呼する彼女は、やはり愛らしい。しかも遠慮がないからか、いつもの五倍は喋っていた。
 ベッドに腰掛けているは、傍に置いた椅子に座るユーシスに語り続ける。
「いつもお断りしますが、ユーシス様に渡してほしいと手紙を渡されることも日常茶飯事です。あ、そういえば川沿いの邸宅に住んでいるアニーちゃんも、ユーシス様を見て王子様みたいでかっこいいと言ってました。ユーシス様が小さい子に好かれるのは、やはり隠しきれない優しさが見えるからでしょうね…………」
 語りながら、は何かを思案するように瞼を落とした。
 次は何を語るのか、とユーシスが心待ちにしていると、彼女の口から息が零れる。
「……すぅ……」
 寝息だ。思案などしていない。これは、寝ている。
 こんなタイミングで寝る奴がいるのか。というか何にも寄りかかることなく座ったまま眠れるものなのか。

 酔いが覚めるまで寝かせないようにと言われている以上、寝かせるわけにはいかない。そう思ってユーシスが名を呼べば、彼女は反応した。
「はい、ユーシス様。何か御用でしょうか?」
 瞳を閉じたまま、答える
 信じられないことに、寝言らしい。
「起きろ」
「…………はっ!?」
 ユーシスがまさにそれが用だとばかりに告げれば、彼女は少しの間を置いて目を開けた。寝ていても従うとは、想像以上の使用人魂を見せてくれる。
「私、眠ってましたね!? ……はあ、私は駄目な使用人です……あろうことか、ユーシス様の前で眠ってしまうとは……う、ううっ……本当に情けない……」
 今度は突然泣き出した。そろそろ水を飲ませるか、とユーシスは立ち上がり、勉強机の上に置いてあるポットからコップへと水を注いだ。
「ああっ! そのようなこと、ユーシス様にさせるわけには!」
「ぐっ――!?」
 が禄に力が入らない足腰で立ち上がり、ほぼ勢いだけでユーシスに背後に突進してくる。彼女の凄まじい頭突きが背骨に突き刺さるように激突し、ユーシスの口からは苦しげな声が漏れた。
「ど、どうされましたかユーシス様!? あ、胸元が水で濡れて……あああっ、私のせいです! 申し訳ありません……!」
 どうされたもこうされたも、お前は痛くなかったのか。こちらは大ダメージだ。
 そう伝えてやりたかったが、更に泣かせてしまいそうでユーシスは言葉を飲み込む。
 はユーシスの前面に回り込んで、先程の衝撃の反動でコップから飛び出した水がユーシスの胸元を濡らしているのに気づき、結局更に泣いた。
「す、すみません……本当に、すみません……わ、私は本当に……ううっ」
「い、一度落ち着け」
 ユーシスの足元に崩れ落ちたは、涙腺が完全に決壊してしまったかのように涙を流した。宥めるユーシスの言葉も届かない。
「まったく、世話のかかる……」
 だが、嫌ではなかった。寧ろの意外な一面が見られて、更に惚れ込んでいる自分がいる。
 振り回されるのも悪くない。だが、それだけで終わるのは癪に障る。
 一矢報いるか、とユーシスは手に持ったコップへと視線を落とした。水は一口分残っている。
 ユーシスは笑みを零して、その一口分の水を口内へ含んだ。
 床に座り込んでいるの側に膝をつき、俯いて泣く彼女の顎を指で掬い上げる。ユーシスの顔を見て、またユーシスの名を呼ぼうと開く唇に唇を重ね、水を流し込んでやった。
 こくん、と彼女の喉が動くのを確認してから唇を離せば、目の前には呆けた顔をしている
「卒業してからも、外では酒を飲ませられんな」
 だんだんと赤くなっていくの耳に触れながら、ユーシスは言った。
 言いながら、卒業後のがどうなるか、ということが頭をよぎる。彼女は元々、ユーシスの兄ルーファス付きの使用人だ。特に理由がなければ、またその場所へ帰るのだろう。
 だが、手放したくない。
 の隣にいるのが、兄ではなく自分であって欲しい。
 それを叶えるためにできることは、今のところ一つしかなかった。
「折を見て、俺たちが交際していることを、俺から兄上に伝えよう」
 真っ赤な耳を撫でながら、ユーシスは告げる。
 は相変わらず、呆けた顔のままだ。
 ユーシスは気づいた。は呆けていない。
 目を開けたまま失神している。
「……今日のお前は隙しかないな」
 苦笑し、ユーシスは再びの唇に蓋をした。

2018/9/6